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2006年8月21日 (月)

日米安保(その4)

核戦争の最前線基地日本

  1955年、米極東軍司令官マックスウェル・テイラー将軍が最初の『極東における核作戦に関する統一運用基準(SOP)』をまとめました。日本や極東の他の多くの場所に核兵器を貯蔵していることを示した始めての公式文書です。その後数次のSOPも示されていますが、もし本格的な戦略核戦争ともなれば、米ソ相互の破滅となることは明らかである。したがって戦術核をつかった、特定の地域での「限定核戦争」戦略を米国軍事戦略家たちは考えていました。欧州ではドイツ周辺、極東ではまさに日本、韓国です。

つまり米国本土から遠く離れた地域で戦術核、あるいは戦域核を使用する核戦争という、なんという虫の良い話でしょう。

いうなれば米国を守るための生贄、あるいは人質、それが核の傘に守られていると言う本当の意味合いです。

  

「限定核戦争」はSOPの内容の第二であって、第一は本格的な全面核戦争についての運用基準です。核戦争に欠かせないのは、米国が全世界に張り巡らせている指揮・警戒探知・情報システムです。その一環として日本は極東太平洋地域の最前線基地としてこの重要な機能を担っています。この機能は安保条約による日本全基地化によって(青森から沖縄まで)米軍の望むところに設置使用されています。このことはもし先制的核戦争を始めようとするとき、第一の攻撃の対象になるのがこれらのシステムであることは軍事専門家ならずとも理解できます。日本はこの危険性を負わされているのです。「日本は不沈空母だ」という呆れるほど間抜けな発言をした首相がいました。

   

  日本が安保条約によって守られているというのが、いかに誤ったことなのか、かっての米ソ冷戦時代に、この安全を保障しない安保条約のもとで事なきを得たのは全くの僥倖であったと思わざるをえません。

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2006年8月15日 (火)

日米安保(その3)

『国体』への執念

  70年代以降の人は文部省が1937年(昭和12年)に発行した国民教化のための出版物「国体の本義」を読まされ、古事記・日本書紀にもとづいて、国体の尊厳、天皇への絶対随順を説き、個人主義、自由主義を排撃する内容に覚えがあると思います。『国体』はその意味であり、ポツダム宣言受諾に躊躇して、ヒロシマ・ナガサキの惨劇を招いたのも国体護持が認められるか否かの問題でした。また米国の日本占領政策はそれを巧みに「利用」して行われたと見ても良いでしょう。これらの問題はまたいずれ書くとして、日米安保の問題に戻ります。

  安保条約成立過程については、高坂の吉田・ダレス・マッカ―サー三者会談によって、吉田が再軍備要求を『頑として断って、軽武装。経済重視の路線を確立』したというのに対して、豊下楢彦の論理に妥当性があると想います。それはアメリカ側の最大の獲得目標は日本の再軍備問題ではなく、前回に書いたように「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか?これが根本的な問題である」(ダレスの言葉)であり、朝鮮戦争によって苦境に立っていた米軍にとっては日本の基地の「自由使用」は「死活的な要素」でした。この意味で、米国務省ばかりではなくペンタゴンでさえ、日本との交渉においてアメリカ側が「きわめて弱い立場」にあることを認識していたのであり、吉田が基地提供カードを重要な「バーゲニング」の手段として駆使してくるであろうと危惧していたのです。 ところが吉田は交渉の冒頭から基地提供の意思を表明し、日本側が持ちえた貴重なカードを早々と放棄してしまったのです。自他ともに「外交センス」を誇る吉田がなぜこのように拙劣な交渉を行ったのか、理解に苦しむとしながらその背景に「天皇外交」の介在を推測するのです。注)豊下楢彦「安保条約の論理」

  

  77年米国の文書機密解除によって明らかになり、入江侍従長日記のよっても確認された、1947年9月22日付けの天皇メッセージには「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望している。」とあるのです。交渉に際して、忠節な吉田茂は天皇の意向を受けたであろうことは十分ありうることだと想います。

  

いまに至るまで禍根を残したことも重大ですが、47年5月3日、実施された日本国憲法に違反することも看過できない重要な問題です。周知のように憲法第一章天皇の第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。となっています。天皇メッセージは9月22日付けですから、これはまさに憲法違反の第一号になるのです。

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2006年8月 8日 (火)

日米安保(その2)

旧安保条約=対米従属の発端

 

 国家の将来のありようを決める重要な日米安全保障条約が、「すべての責任は自分が負う」という、吉田茂首相ひとりの署名によって講和条約調印当日、署名成立しました。しかもその内容は独立国としては到底容認できないものでした。

前文には「日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。・・・・日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及び付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」「アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその付近に維持する意志がある。」これを受けて「第一条[駐留軍の使用目的]平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。」とあります。

独立国家としては国際通念として考えられない外国軍の駐留を認め、あまつさえ内乱状況の際に外国軍の干渉を依頼する信じがたい卑屈な条約です。その後の日本政府の対米従属の発端となったのです。

 

 アメリカは講和後も占領期と同様に、日本の「全土基地化」の権利を如何にすれば獲得できるかが最大の課題でした。東西冷戦の高まる中、在日米軍基地は「極東防衛」のためばかりでなく、「ヨーロッパで戦争が勃発する際の対ソ攻撃作戦の拠点として位置づけられていました。政府高官の言う「アメリカの安全を維持する死活的な資産である。」のです。

 講和使節団のダレスが東京会談に臨むにあたって、最大の悩みは恐らく易々とは承服しないであろう米軍基地の存続を認めさせることにあったといいます。そのためにマッカーサーには交渉のための手段や日本側の助けになる人選を相談したということです。ところが意外にも事態は予想もしない結果になりました。日米安保条約が如実に示すように、攻守逆転し少々の米側に不利益があっても、一部でも日本に米軍基地を残す積りだったのが、日本に懇願されて米軍基地をおいてやろうということになったのです。  その経緯は次に書きます。

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2006年8月 6日 (日)

日米安保(その1)

日米安保解消=日本が生き残る道(1)

 10年前、都留重人「日米安保解消への道」が、国の進路を過たないために、いま何をなすべきか。として“緊急出版”されました。95年9月に起きた沖縄在駐の三人の米兵による少女暴行事件にたいする激しい全国的な憤りに端を発した、沖縄問題に、それまでに書かれてきた日米安保問題に新しい情報を加えて出版された。その明快な論理と該博な国際情勢による分析は現在の北朝鮮問題まで予測した必読の書です。残念ながら彼が望んだ沖縄問題の解決は前進せず、日本政府は日米安保の解消どころか対米従属の戦争への道を進めています。

政治家の大多数も、いわゆる「識者」も、また若者の多くも日米安保が日本を守っていると考えています。メディアの論調も殆どその様に見受けられます。

60年安保闘争を経験した年代はいまどのように見ているのでしょうか。安保闘争を知らない世代に日米安保とは何かを書くのも意味があるのではと思います。

1951年、全面講和を求める運動の高まりをよそに、アメリカ政府は単独で講和条約草案を作成しダレスは同盟国を回って支持を取り付け、9月8日、サンフランシスコのオペラハウスで49カ国の調印をもってサンフランシスコ講和条約が成立しました。

当日(9月8日)午後5時8分、サンフランシスコ市のはずれ、第6兵団駐屯地プレジディオの下士官兵士用クラブ(なんというお粗末)で日米安全保障条約が署名されました。

署名日、場所が指定されたのは前夜11時近くであったといいます。本来条約は対等の国家同士がそれぞれの国会の承認を経て結ぶべきものである筈です。しかるに講和条約成立の数時間後に、条文はいっさい国民に知らせず、しかも署名には数名の政府要人が立ち会うはずであるのに、なぜか芦田氏は拒否し、吉田茂ひとりが署名した。その内容も秘密にされ密室の中での署名でした。

ときあたかも朝鮮戦争が勃発し、その危機的状況をカードに有利な条件が付けられた筈なのに、外交のベテランと言われる吉田茂が、基地提供などのいまに至るも極めて不利な条件を許したのでしょうか。これは誰よりも忠臣、吉田茂の心情があったと推測されます。    (次回に続きます。)

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