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2006年8月15日 (火)

日米安保(その3)

『国体』への執念

  70年代以降の人は文部省が1937年(昭和12年)に発行した国民教化のための出版物「国体の本義」を読まされ、古事記・日本書紀にもとづいて、国体の尊厳、天皇への絶対随順を説き、個人主義、自由主義を排撃する内容に覚えがあると思います。『国体』はその意味であり、ポツダム宣言受諾に躊躇して、ヒロシマ・ナガサキの惨劇を招いたのも国体護持が認められるか否かの問題でした。また米国の日本占領政策はそれを巧みに「利用」して行われたと見ても良いでしょう。これらの問題はまたいずれ書くとして、日米安保の問題に戻ります。

  安保条約成立過程については、高坂の吉田・ダレス・マッカ―サー三者会談によって、吉田が再軍備要求を『頑として断って、軽武装。経済重視の路線を確立』したというのに対して、豊下楢彦の論理に妥当性があると想います。それはアメリカ側の最大の獲得目標は日本の再軍備問題ではなく、前回に書いたように「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか?これが根本的な問題である」(ダレスの言葉)であり、朝鮮戦争によって苦境に立っていた米軍にとっては日本の基地の「自由使用」は「死活的な要素」でした。この意味で、米国務省ばかりではなくペンタゴンでさえ、日本との交渉においてアメリカ側が「きわめて弱い立場」にあることを認識していたのであり、吉田が基地提供カードを重要な「バーゲニング」の手段として駆使してくるであろうと危惧していたのです。 ところが吉田は交渉の冒頭から基地提供の意思を表明し、日本側が持ちえた貴重なカードを早々と放棄してしまったのです。自他ともに「外交センス」を誇る吉田がなぜこのように拙劣な交渉を行ったのか、理解に苦しむとしながらその背景に「天皇外交」の介在を推測するのです。注)豊下楢彦「安保条約の論理」

  

  77年米国の文書機密解除によって明らかになり、入江侍従長日記のよっても確認された、1947年9月22日付けの天皇メッセージには「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望している。」とあるのです。交渉に際して、忠節な吉田茂は天皇の意向を受けたであろうことは十分ありうることだと想います。

  

いまに至るまで禍根を残したことも重大ですが、47年5月3日、実施された日本国憲法に違反することも看過できない重要な問題です。周知のように憲法第一章天皇の第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。となっています。天皇メッセージは9月22日付けですから、これはまさに憲法違反の第一号になるのです。

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